忍者ブログ
宇宙、地球、大地、生命、自然、愛、魂、21世紀のサイケデリック、YORANDAのデザイナーによる
     
<< | 2024年05月 | 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 | >>
[1]  [2
Updated   
2024.05.16 (Thu)
×

[PR]上記の広告は3ヶ月以上新規記事投稿のないブログに表示されています。新しい記事を書く事で広告が消えます。

Updated   
2019.02.22 (Fri)
 
我が家には御齢17歳になる三毛の女の子がいて、名前をナナといいます。
ナナちゃんは私にとっては4匹目の飼い猫でして、今日はネコの日ということで、ここで歴代の猫たちを一挙紹介したいと思います。


●ピーちゃん  1986〜2001

ピーちゃんは元々は当時のパートナーが飼っていた子で、ミュージシャンでツアーなど留守がちだった彼の代わりに私の家にやって来ました。

とにかくシャイで、友人が私のアパートに遊びに来ると押入れに引きこもって絶対に出て来ません。
泊まりでもあろうものなら、頭に小さなハゲをこしらえてしまう繊細な子でした。

獣医さんに往診に来てもらった時も、先生は気を遣って白衣を着ずにポケットに注射を忍ばせてやって来るのですが、ドアベルを鳴らす前から部屋中を駆けまわり(当然押入れは閉めてある)ついにはジョーーッと失禁してしまうのです。

常に凛として気品があって、お腹を見せて寝転ぶなんてそんなはしたない!という風情です。
同居ネコとも距離を保つ孤高のレディでしたが、その名はピート・タウンゼントに由来しています。笑




●じん坊  1991〜2002

ピーちゃんの用心棒としてやって来た男の子。その役目は果たされる事なく、甘ったれのストーカーとして、その巨大な心と肉体で私の心と肉体を満たしてくれた子です。

仔猫で家に来ましたから私はもう夢中で可愛がって、もし今だったらSNSをじん坊の画像だらけにしていたことでしょう!

とにかく私から離れない。トイレにも付いて来る。お風呂にも付いて来る。濡れると分かると出せと騒ぐ(学習しろ)
寝るときはいつも私の股の間。恥骨に顎を乗せるのが定番のスタイル(侵入しようとする何かから私を守っていたのでしょうか?笑)

部屋で開かれるバンドの練習後のミーティングにも、いつも参加していましたね。

私に「溺愛」を教えてくれたのは、間違いなくじん坊です。

息子が1歳くらいになってそれはそれは激しい後追いが始まった頃、これはじん坊の生まれ変わりかなと思いました。




●ウランちゃん  1995〜2000

アトムスタジオというデザインスタジオで生まれたのをもらって来た女の子。
小さな小さなウランちゃん。ウサギのように柔らかい毛の手触りを今も思い出します。

小さくて身軽だったから、高いところに登るのが得意でした。
カーテンレールの上とか、エアコンの上とか。観葉植物の途中とか。

じん坊にとっても可愛がられて、ペロペロ舐められるから唾液臭くなってました。
この頃のアルバムは2匹のラブシーンで埋め尽くされています。

小さな小さなウランちゃん。その一生もとっても儚くて、若くして病気になってしまい、呆気なく天に返すことになりました。
亡骸もとっても小さくて、ショックで悲しくて、辛いお別れでした。




●ナナちゃん  2001〜
 
じん坊は生家では「ちゃくん」と呼ばれていたのですが、そのちゃくんの妹が七夕に赤ちゃんを産んだというので会いに行ったのです。

じん坊と同じ赤ネコと三毛とで5匹いたでしょうか。
どの子も可愛かったのだけど、膝の上に乗って動かなかった三毛ちゃんのアピールに応えることにしました。

ナナちゃんは4匹の中で一番気が強い子。
仔猫の頃から果敢に巨猫のじん坊に飛び掛かかって行ったし、気に入らない撫で方をすれば「この下手くそ!」と噛まれます。

お腹が空けばお皿を咥えて持って来る。
泊まりで留守にした時に、タイマーで回転する給餌器をセットして行ったら、見事に破壊されていました。

そんなナナちゃんだけど、子供達には何をされても決して反撃しません。
赤ちゃんが寝ているお布団や敷き布にも、決して足を踏み入れない。

今はもうおばあちゃんで、腎臓ガンも患っていて、一日のほとんどを寝て過ごしています。
だんだんと痩せて来て、毛づくろいもしなくなり、時々ふらつくこともあり…

残された時間の短いことを覚悟しながら、とにかくのんびりとゆっくりと過ごしてもらおうと、積極的な治療はせずに見守っています。
食欲は一人前なので、まだもうしばらく、一緒にいれるかな。

 



拍手[1回]

PR
Updated   
2018.12.30 (Sun)
もう年の瀬ですって!早いですねぇ!!

blogの更新も滞りまくって、そのうち自分でも存在を忘れそうな危険を察知し、つらつらと書いてみることにしたので、よろしければお付き合いください。

先日、話題の「ボヘミアン・ラプソディ」を見てきました。
Queenは私が好きというより兄が好きだったバンドで、おかげさまで殆どのアルバムを聴きこんでいます。

Don't Stop Me Now とかSomebody To Love、Crazy Little Thing Called Love なんかが好きですね。


映画を見て思ったこと、感動したこと、変だったこと、いろいろあったけど、Queenの音楽性が素晴らしいなと改めて。
そして、Live Aidって凄かったよなぁぁぁ!

    

当時は今みたいに検索すればアーティストの動画がザクザクなんて事態は夢にも想像できなかったどころか、海外の好きなアーティストの(好きでないアーティストですら)動く姿を見れる機会は非常に貴重だったわけです。

おまけに私はまだティーンエイジャー。かつて野球やテニス、真田十勇士にはまったのとは桁違いの勢いでロックにはまっていく末娘の姿を、厳格で狭量な両親が快く思うはずがありません。

そうして私は愛機ラジカセを没収されても、隠し持ったポータブルラジオにイヤホンで世を忍び、両親が寝た夜中にこっそり起き出してリビングのテレビを灯し、MTVやベストヒットUSAに食らいついていたのです。



忘れもしない1984年の冬。エチオピアで起きた大飢饉とその救済に立ち上がったミュージシャン達のことは大きな話題でした。

ある日母とデパートに出かけた時に、買いたいものがあるとレコード売り場に寄って、バンドエイドのDo They Know It's Christmasをレジに持って行ったら、なんと母が「出したげる」と言って買ってくれたんです!

これは事件でした!チャリティーならOKなんだ!と。


そして翌年の7月13日。私は堂々と、両親がまだ起きている時間からテレビの前を陣取って深夜まで。そして翌朝も早くからずっと、さすがに徹夜は出来なかったのだけど、動くロックスターたちを、文句を言われることもなく、生中継で、目に焼き付けることが出来たのです。

チャリティー万歳!



本当に忘れ得ぬ一大イベント、忘れ得ぬ一日。

クイーンのパフォーマンスは本当に凄かった。ただのお馬鹿なアイドルだと思っていたマドンナのステージにも圧倒された。ブラックサバスで嬉しそうに歌うオジーの笑顔も忘れられない。再結成の噂はあったツェッペリンのドラムがフィル・コリンズだったのは驚いたし。ボブ・ゲルドフが歌ってるのは初めて見たけど、なぜヒット曲がMondayしか無いのかな?とか...


全てが新鮮で全てが貴重だから、記憶に焼き付いているんです。

当時、多感な年頃のロックファンだった元少年少女の多くに、共通の原体験なのかもしれません。
「ボヘミアン・ラプソディ」を観て、当時の興奮が蘇ってきて、映画館でフレディと一緒に熱唱しそうになった、おじさん!おばさん!

私もです。




拍手[2回]

Updated   
2017.12.31 (Sun)
2017年も暮れでございます。

あれこれありました。


今年は他の仕事が忙しかったり、後半は目の調子が悪かったりで、あまり新デザインを出すことが出来ませんでした。

入院しなかったということでもあるので、それは良かったのだけど。。


年末には新しい眼鏡も作ったし、2018年はもう少しTシャツデザインに注力しようと思っております。

ラフを描いたまま寝かせているデザインも色々あるのです。ふふふ。


今年はバラバラとやっていた仕事を会社にまとめて、ほとんど家で仕事をするようになったので、身体的にはグッと楽になり、前ほどコンスタントに入院治療が必要にならないように感じています。


それでもステロイドを減らしていくにつれ、徐々に徐々に症状は出てくるので、どこかで入院して一気に引き上げる必要があるのかどうか。

一回の入院は3週間。家族に影響することなので、出来るだけ先延ばしすべく、無理せずゆったりのんびり過ごすことが肝要。


つまりは私の得意分野です。



   こ〜んな感じで参ります。



まぁ本当はもっと活動したいんですけどね。


みなさまに喜びの多い新年を。




拍手[0回]

Updated   
2017.09.15 (Fri)
親の介護が必要になった時、仕事は辞めなければならないだろう.。
そう思っている人も多いのではないかと思います。

あくまで「ウチの母の場合」ですが、こんな風にしていました。


母がパーキンソン病になったことが分かり、介護が必要だとなった時、母と話したのは、とにかく同居している義姉が仕事を続けられるように、という事でした。

実家は二世帯住宅で、玄関は一緒、キッチンなど水回りは別という同居形態。
兄夫婦には子供がなく、共に会社員で責任ある仕事を任され、毎晩遅く帰る生活。
果たしてその生活を維持しながら、徐々に不自由になるであろう母の介護は出来るのか?

まずは親戚に介護マネージャーさんを紹介してもらい、介護保険でどのようなサービスが受けられるか相談しました。

最初のうちは要支援で、週に数回ヘルパーさんに来てもらう生活だったと思います。
しかしどんどん症状は進み、身体の自由が利かなくなり、要介護度も進みます。


母はデイケアに通い、入浴やリハビリの支援を受けることに。
しかしデイのお迎えは出勤後。帰宅も夕方です。
母はドアベルが鳴っても玄関まで行き鍵を開けるのは難しい。
それで登場するのがキーボックス。鍵を入れて玄関扉に下げておき、暗証番号で開けてもらうのです。

  

母は最初、デイに行くのをかなり嫌がっていました。
デイでは色々な活動をやらされ「幼稚園みたいよ」などと文句たらたら。

でも元々得意だった手芸に活路を見出し、みんなに褒められて気分が悪いはずもなく。
そのうち気の合う友人も出来たようで、お互いにファッションを褒めあったりして。
女性はお互いに気分を上げるのが上手ですね。何歳になっても。


夕方にはヘルパーさんが来て、洗濯、掃除、夕食の支度をしてくれます。
食事の材料は、ヘルパーさんが限られた時間ですぐ出来るような、簡易調理品などを用意しておきます。後は冷蔵庫にある野菜などを適当に調理してもらえます。
しかし食材を買う人、調理をする人、食べる人が全部違うので、なかなか難しい部分もあったみたい。


身体の動きが悪くなるにつれ、介護ベッドや手すり、捕まり歩きできるような補助具など、全てケアマネさんのアドバイスで、介護保険を使ってレンタルしました。

 
介護ベッドをリビングに置いて、移動を少なく。ベッドもテーブルも手芸用具があふれています。母の身体が傾いているのは病気の症状です。

通院の時や、転倒して骨折したり、薬の調整などで入院することもしばしばあり、そんな時は兄と義姉で交代で付き添っていました。
職場の上司は親の介護を経験している世代で、理解をしてもらっているから大丈夫と言ってましたが、大変だったと思います。

そうして母は一応は自立した生活を送ることが出来ていました。
プライドが高くて、人の負担になるのを嫌った母には、良かったのではないかと思います。

ただ段々と身体が動かなくなり、伝い歩きでトイレに行くのも大変で間に合わなかったり、夜中に起きて転ぶと起き上がれず、朝までそのままになっていたり。
認知も徐々に悪くなってきて、薬を飲み忘れることもしばしば。

そろそろ自活も限界だろうか?施設の世話になるとしたら、どんな所があるのだろうか?などと話していた矢先に、亡くなってしまったのです。

育児と違って、介護はいつまで続くか分からない。しかもどんどん悪くなっていく。
そして、突然、終わるんですね。


だからこそ、大勢の人の手を借りながら、制度を目一杯利用しながら、母には辛いところもあったかもしれないけれど、家族みんなが出来るだけ以前と変わらない生活を続けて行って正解だったと、私は思っています。

私は遠方に暮らしていて、母の介護は兄夫婦に任せきりで、本人たちは私の知らない苦労が山ほどあったと思います。
ブログになんかしたら、とても1回じゃ収まりきらないでしょうね。

今、兄夫婦が燃え尽きて脱け殻になっていないか、それがちょっと心配。


多分今の私より若い両親...
お正月で母はおめかししていますが、父は普段着ですね。


拍手[0回]

Updated   
2017.08.28 (Mon)
母が亡くなりました。

その日私は少年野球の試合でアナウンスを担当していたのです。
相手チームの攻撃時は少し余裕があるので、スマホを見たところ、実家の兄から着信履歴が。もうそれだけで、もう悪い予感だけです。

パニックになりながらも帰宅して荷物をまとめ、
野球の試合の後に地元のお祭りでバンド演奏を終えた子供たちを連れて、新幹線で名古屋へ。

 
 
母はここ数年パーキンソン病で、不自由な体に苦しんでいました。
私が7月の初旬に訪ねた時は、大変そうではあるけれども、近場に歩いて出かけ、外食も供に出来る元気だったのです。
それが7月末に誤嚥性肺炎と感染症で倒れ、2週間ほど入院することに。
きっとその入院でまた体力が落ちてしまったのでしょう。




神経難病はその疾患自体というよりも、その疾患のもたらす体力や抵抗力の衰えによる影響が命取りになることが、ままあるんですね。
実家の2階に暮らす兄が朝1階の母の様子を見に行ったら、すでに意識の無い状態で、きっと痰か何かを喉に詰まらせてしまったのだろうということでした。

70歳の誕生日には、母はスキーはそろそろ引退と言うものの、週に一度はテニスをし、英会話を習い、海外旅行や留学もする元気で、きっと100歳まで生きるね、と話していたのです。
それが77歳の誕生日には、長生きも大変だわねぇ、と話して。
それが最後の誕生日となりました。

   

病気だったこともあって故人の遺志は明らかで、特に葬儀や宗教的なことは何も行わず、兄妹弟、義姉弟にだけお知らせして、自宅から献体に送りました。
父が医療関係の仕事をしていた関係で、夫婦で献体に登録していたのです。

その父は17年ほど前に亡くなって、その時以来の親戚もいたのだけれど、懐かしい祖父母の思い出話などして、彼らの血は私の子供たちにちゃんと受け継がれ、生きて流れているんだなぁと、改めて感じました。
肉体は終わっても、続いているものがあるって、心の救いです。命です。

   

そして年老いた親戚たちがみな口にしたのが、母が自宅で死ねて良かったと。
これは一緒に住み介護してきた兄夫婦への労りの言葉でもあるのだろうと思うけど、長生きし過ぎるよりも、自宅で眠ってるうちに逝きたいというのが、なかなか叶えられない夢なのでしょうね、現代の日本では。

長年病気で苦しんだ末だったので、楽では無かったよ、とも思いますが。

   

少し落ち着くと、遺品の整理や相続の話もしなければなりません。

兄姉と話して改めて思ったのは、両親が亡くなると、家族の繋がりが一気に希薄になってしまうということ。家族解散?みたいな。

子供が生まれてから年に2度は里帰りしていたけれど、もうその理由も、実家自体も無くなってしまう。

ふるさと名古屋が遠い街になってしまう...
大好きな名古屋B級グルメを味わう機会が...!!

これは予期していなかったショックで、母の不在と共に私の心にどっかりと、ドーナツの穴のように居座っているのです。

やはりこれからも毎年、ナゴヤドームのカープ戦は、子供たちを連れて観戦に行かねばならないのかもしれないわ。

 ※ 写真の刺繍は全て母による作品です
  

拍手[0回]

プロフィール
HN:
YORA
Webサイト:
性別:
女性
P R